カナダ・バンクーバー在住Kanaさんからの海外生活体験記

2011年7月よりカナダ・バンクーバーに移住したKanaさんの、バンクーバ生活の中での気づきや、生活で役立つワンポイント英会話をお届けします。

vol.12 カナダの日本文化

いよいよ年の瀬も押し迫って参りましたが、 皆さんいかがお過ごしでしょうか?
毎月お送りさせて頂いたこの海外生活体験記・カナダレポートも今回で最終回となりました。
そんな今回は、こちらに越して来てから私自身が自分の肌で感じたカナダ(バンクーバー)での日本文化とその背景についてお話ししたいと思います。

外務省の統計「海外在留邦人数統計(都市別)」 によると、1位) ロサンゼルス/70,629人、2位)上海/56,481人、3位)ニューヨーク/54,885人、4位)ロンドン/36,717人に続き、バンクーバーは8位/23,847人に位置付いています(2011年10月現在)。
これに留学生や観光客も加われば、それもそのはず。市の中心部で日本人を目にする機会も多いわけです。
ですがここは移民の国カナダ、 「カナダの日本人」と言っても上の様に一時的にカナダ国内に滞在(在留)している日本人の事だけを指すわけではありません 。 日本からの移住者やその子孫の日系人もBC州だけで約37,000人と、彼ら抜きにして「カナダの日本人」は語れない気がします。

バンクーバーのみならずカナダにおける日系人の歴史の始まりとなったのは、1877年、ボイラーマンとして乗っていた英国船から無断でバンクーバー付近に上陸した 長崎県出身の永野萬蔵さん(1855年〜1923年)で、 日本式の投網で川を遡る鮭を一網打尽にして財を成し、後にはカナダの産業発展や鉄道建設にも協力したと言われています。
1977年の日系移民百年祭にはカナダ政府が永野さんを日本人のカナダ移民第一号と正式に認め、 BC州北部に位置する 標高1968mの山を'Mount Manzo Nagano'と名付けました。 1880年代後半になると この永野さんに続き 日本からの本格的な出稼ぎや集団移民が始まり、特に鮭漁の繁忙期には数千人の日本人がこれに従事しこのまま定住して漁業を営む人も多くなりました。
バンクーバーに隣接するリッチモンド 市のスティーブストン(Steveston) という漁村は「サーモノポリス(Salmonopolis/鮭の町)」とも呼ばれ 後には繁栄も頂点に達しましたが、真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発を契機にまず日系人の漁船がカナダ海軍により接収され次いで家産や地位も剥奪 、そして全ての日系人は日本への帰国か内陸の収容所への移動を迫られ、これによりスティーブストンの日系人コミュニティは一旦消滅する事となります。

このスティーブストンだけでなく、大火をきっかけに進んだバンクーバーの区画整備により1890年代に入ってから「パウエル街(Powell Street)」という通りが建設され、ここに日本から船でバンクーバーへ渡って来た日本人が一旦落ち着く宿屋「ジャパンルーム」や就職先の紹介所が建ったりと、日本人の町としてのパウエル街というものがありました。 当時のカナダにおいてのアジア人排除という厚い壁に阻まれながらもこのパウエル街は確実に成長を続け、日本の食料品や雑貨を扱う大型店や料亭、精米所、カマボコ工場、 床屋、書店から病院まで揃い、「パウエル街に行けば何でも揃う」とまで言われる程になりました。 後に「リトル・トウキョウ」と呼ばれる様にもなるこのパウエル街にはカナダで生まれた日系二世を対象にした日本語学校や仏教会、各種日系団体の事務所等も並んでパウエル・グラウンドでは野球チーム「アサヒ」が日系以外からも人気を集める等し、1920年代から30年代にかけてのパウエル街は輝きに満ちていたとされています。

しかし1941年日本への宣戦布告に合わせて 日本語新聞は発行を停止され日本語学校も閉鎖、パウエル街の日本人町は一挙に崩壊し スティーブストンの日系人と共に強制帰国・収容を余儀なくされました。 そして彼ら日系人約21,000人はBC州内陸部に急造された収容所での抑留、道路建設やさとうきび畑での強制労働を強いられるのです。 この日系人強制収容はアメリカのケースほど知られてはいませんが、身柄の開放と同時に返還を約束されていた財産をオークションに掛けられ金銭もそのまま没収、 アメリカが日系人の強制収容を止め太平洋沿岸へ戻る事を許可しても翌1945年にはカナダ政府が日系人のカナダへの忠誠心を試してロッキー山脈以東への再移動を承知するかどうかを調査したりし、終戦後でさえも1949年まで沿岸部への帰還を許さなかった等相当に過酷なものだったと伝えられています。

こうした日系コミュニティは戦前の様な勢いを取り戻す事はありませんでしたが、それでもパウエル街の仏教会や日本語学校は今でも健在、週末のスティーブストンは漁れたての魚のお刺身やフィッシュ&チップスを楽しむ観光客で賑わっています。
そして1980年代の急発展により今では市内に多くの日系施設や商店が立ち並んでいますし、'Sushi' や 'Ramen'、'Teriyaki'といった日本食も人気です。


また日本の電化製品や車、アニメ等は言わずと知れた世界人気ですが、若い女性は特に日本の化粧品や雑貨、ファッションへの興味が強い様で、そうした日本製のものは日本の2〜3倍もする値段でも売れ行きが良い様です。 指圧院や美容室、ネイルサロンでも行き届いたサービスを求めてわざわざ日系のお店を選ぶ人も多ければお店側が「日本人スタッフがいます」と掲げている所もありますし、先日私が掛かった歯医者さんは「この機材は日本製なんだよ、日本製のものは品質が良いからね。 ほら見て、これもあれも日本製。」と、'Made in Japan'と記されたそれらを得意気に見せてくれました。 文化、モノの品質に限らず日本人の勤勉さもこちらでは高く評価されていて、名の知れた企業が日本人向けの求人募集媒体に広告を出している事もあります。

私がこちらに来てまだ間もなくクレジットカードもデビットカードも持っていなかった頃、近所の行き付けのお店で食材を買った時の話です。
お会計の際にふとお財布を見ると充分な現金を持ち合わせていなかった事がありました。困った私が「ATMに行ってからまた戻って来るね。」と言うと、何とその店員さんは は「君は日本人だろう? 日本人は信頼しているからまた次回でいいよ。」と言ってくれたのです。
これはまさに、自分という一人の人間が移民で成り立つ国カナダの中で「日本人(日系)」という括りの中にいるんだという事を初めて実感した瞬間でした。 またその「日本人」が信頼されているというのも、明らかに「日本人である自分」を指すわけではなく「括りとしての日本人全体」を彼は意味していたわけで、こういった信頼感は今に生まれたものでも何でもなく上の一世や二世・三世の日系人が筆舌に尽くし難い苦労を重ねて築き上げて来てくれたものなのです。 カナダにいながらして自分が日本人である事をこれ程に誇らしく思った事はなかったと言えましょう。

カナダに限らずとも、海外の留学先や滞在先において「せっかく日本を離れてここまで来たんだから 日本人と関わったり日本食を食べていては意味がない」とお考えになる方も多いでしょうし、私自身もそう考えていた事がありました。
それでもやはり私は日本で生まれ育った日本人ですから、どうしても日本語でしか伝えられない様なニュアンスもあればただ単に日本語で会話がしたいという事もありますし、日本食が好きだといった嗜好まではどうしようもありません。 そういった時、自分の周りに日本人(日系人)や親日家の友人がいたり日本料理を手軽に食べたり作ったり出来る様なバンクーバーのこの環境はとても有難いものです。 また毎年催される桜祭りやパウエル祭等の日系の行事も、 単に恒例行事というだけでなく、この様な環境と歴史を後世に引き継いで行くといった意味が込められているのでしょう。 環境という名の坩堝の中で全てがごちゃ混ぜに同化されてしまうのではなく、日本人・日本文化の色を鮮明に 保ちながらも異なった色の他国文化と共に一つの大きなモザイク画を描き続ける。それがカナダという国です。

自分が日本人である事が判ると、片言の日本語で「コンニチハ」「ワタシノナマエハダニエルデス」といった様に話し掛けられる事があります。
先日アメリカとの国境でパスポートを提示した際には、通関の係員が'Sukiyaki'を熱唱(!)してくれました。 そんな時私はあえて日本語で返事をし、 いつまでも日本人らしさを大切に持ち続けたいと願いながら、自分の中の日本人アイデンティティに呼び掛けるのです。

 

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◆ バックナンバー ◆
vol.01 郵便と新聞配達
 vol.02 携帯電話  vol.03 レストランでの食事
vol.04 カナダでの就職活動  vol.05 He/She人称代名詞 vol.06 硬貨と紙幣
vol.07 カナダの移動手段  vol.08.カナダでのパーティー vol.09 カナダのワイン
vol.10 カナダのフランス文化 vol.11 クリスマス